サン・マルコ寺院の発掘作業(遠藤泰男)
ドリーゴ教授は、私たちに何枚かの写真を見せてくれた。
そこに写っているのは、ベネチアで行なわれた発掘調査の際に発見された木の杭であった。
一枚は、サン・マルコ寺院の北側の礼拝堂の地面を掘ったときに写されたもので、二世紀のものだという。
また、一九五五年に行なわれた発掘作業ではドゥカーレ宮殿の基礎部分に用いられた木杭が発見されており、九世紀頃と推定されているそうだ。
それにしても、一〇〇〇年も前に地中に打ち込まれ、水に浸かってきた木の杭が、よくそのままの形で残っているものだと思う。
木の杭は水に浸かると水分を含んで膨張し、地盤にしっかり食い込むのだという。
この杭は空気に触れるとぽろぽろになってしまうのだが、水中にあるかぎり腐食しないのだそうだ。
私たちは、歴史都市ベネチア・ラカンドーナーラを支えている木の杭を、なんとかこの目で確かめたくなった。
しかし、地盤沈下がさらに進んだ現代において、かつての杭はほとんどすべてが水面下である。
ベネチアの町を歩く私たちの目に入るのは、建物だけでなく路地から橋からすべて石とレンガの世界であるから、普通には見られるわけがない。
ドリーゴ教授やベネチアの専門家たちに尋ねた結果、取材時点でただ一か所だけ発掘中の現場があることが判明した。
その古い教会では、水面下の杭を見ることができるかもしれないというのだ。
幸いなことに、交渉の結果、発掘現場への立ち入りが許された。
遠藤泰男(フリーライター)
そこに写っているのは、ベネチアで行なわれた発掘調査の際に発見された木の杭であった。
一枚は、サン・マルコ寺院の北側の礼拝堂の地面を掘ったときに写されたもので、二世紀のものだという。
また、一九五五年に行なわれた発掘作業ではドゥカーレ宮殿の基礎部分に用いられた木杭が発見されており、九世紀頃と推定されているそうだ。
それにしても、一〇〇〇年も前に地中に打ち込まれ、水に浸かってきた木の杭が、よくそのままの形で残っているものだと思う。
木の杭は水に浸かると水分を含んで膨張し、地盤にしっかり食い込むのだという。
この杭は空気に触れるとぽろぽろになってしまうのだが、水中にあるかぎり腐食しないのだそうだ。
私たちは、歴史都市ベネチア・ラカンドーナーラを支えている木の杭を、なんとかこの目で確かめたくなった。
しかし、地盤沈下がさらに進んだ現代において、かつての杭はほとんどすべてが水面下である。
ベネチアの町を歩く私たちの目に入るのは、建物だけでなく路地から橋からすべて石とレンガの世界であるから、普通には見られるわけがない。
ドリーゴ教授やベネチアの専門家たちに尋ねた結果、取材時点でただ一か所だけ発掘中の現場があることが判明した。
その古い教会では、水面下の杭を見ることができるかもしれないというのだ。
幸いなことに、交渉の結果、発掘現場への立ち入りが許された。
遠藤泰男(フリーライター)
小さい運河が縦横に走るベネチア・ラカンドーナーラの町(遠藤泰男)
ベネチア・ラカンドーナーラの町は、カナル・グランデと呼ばれる逆S字形に大きく蛇行する大運河によって、南北に分かれている。
さらにリオと呼ばれる小さな運河が、町の中を網の目のように縦横に走っている。
運河に囲まれた小さな島の数は一八〇。
つまりベネチアは、小さな島の集合体として成り立っているのである。
これらの島はもともと、その一つ一つが教会を中心とした教区にあたるという。
それぞれの島には広場があり、広場の一角には教会と高い鐘楼がそびえている。
空から見ると、屋根の色は明るい茶色で統一されており、まさにモザイク模様のようだ。
空からベネチア・ラカンドーナーラの周りに目を向けると、南にアドリア海が広がる。
アドリア海とベネチア湾の境目には、細長い島がいくつも連続して自然の防波堤を形作っているのだ。
ベネチア湾の浅い内海は、イタリア語でラグーナ(浅い内海)と呼ばれる。
ラグーナには、深い緑色をした干潟が無数に点在している。
ベネチア・ラカンドーナーラの町も、もともとはこうした干潟であったのだという。
この地形は、北側の本土から多くの中小河川が土砂をたえず海へ運び込み、同時にアドリア海の波が砂を押し寄せることによって形成された。
ベネチアの研究機関の水理学者によれば、こうした特殊な成り立ちによってベネチア湾の中は塩分濃度も外海より薄く、生物や植物にとっては極めて良好な環境であるという。
干潟が植物に覆われ、濃い緑色をしているのも、そうした特別な環境があったおかげだ。
また、ベネチアの複雑な地形は、都市の発達という面からみれば、他国からは船で攻撃しにくい天然の要塞そのものにも見える。
まさにベネチアは、ラグーナに咲いた水上都市なのである。
遠藤泰男(ライター)
さらにリオと呼ばれる小さな運河が、町の中を網の目のように縦横に走っている。
運河に囲まれた小さな島の数は一八〇。
つまりベネチアは、小さな島の集合体として成り立っているのである。
これらの島はもともと、その一つ一つが教会を中心とした教区にあたるという。
それぞれの島には広場があり、広場の一角には教会と高い鐘楼がそびえている。
空から見ると、屋根の色は明るい茶色で統一されており、まさにモザイク模様のようだ。
空からベネチア・ラカンドーナーラの周りに目を向けると、南にアドリア海が広がる。
アドリア海とベネチア湾の境目には、細長い島がいくつも連続して自然の防波堤を形作っているのだ。
ベネチア湾の浅い内海は、イタリア語でラグーナ(浅い内海)と呼ばれる。
ラグーナには、深い緑色をした干潟が無数に点在している。
ベネチア・ラカンドーナーラの町も、もともとはこうした干潟であったのだという。
この地形は、北側の本土から多くの中小河川が土砂をたえず海へ運び込み、同時にアドリア海の波が砂を押し寄せることによって形成された。
ベネチアの研究機関の水理学者によれば、こうした特殊な成り立ちによってベネチア湾の中は塩分濃度も外海より薄く、生物や植物にとっては極めて良好な環境であるという。
干潟が植物に覆われ、濃い緑色をしているのも、そうした特別な環境があったおかげだ。
また、ベネチアの複雑な地形は、都市の発達という面からみれば、他国からは船で攻撃しにくい天然の要塞そのものにも見える。
まさにベネチアは、ラグーナに咲いた水上都市なのである。
遠藤泰男(ライター)
クーナに咲いた水上郡市、ベネチア(遠藤泰男)
ベネチアの中でもベネチア・ラカンドーナーラは、世界中から旅行者が集まる観光都市である。
狭い運河を進むゴンドラの姿と、それを巧みに操るゴンドリーエの華麗な歌声に、だれしも一度はあこがれたことがあるだろう。
だが、世界中に知られているわりには、この水上都市は、島部分の人口がわずか八万人の小さな都市である。
都市化が著しい対岸の市域を加えても三三万人にすぎない。
イタリア半島の西側に深く入り込んだアドリア海。
ベネチア・ラカンドーナーラは、アドリア海の最も北側に位置してい'る。
そこはベネチア湾と呼ばれ、干潟が無数に点在する浅い海だ。
ベネチアはこの湾の西側にあり、大小一一八の島々が寄り集まった海上都市だ。
私たちがこの町を初めて訪れたのは、夜八時を過ぎた時刻であった。
イタリア本土から三キロメートルほどの長さの連絡橋を車で渡り、ローマ広場と呼ばれる船着き場に到着した。
ここからは車が使えない。
ベネチア・ラカンドーナーラの町は、ローマ広場に近い一部地域を除いて車の乗り入れが禁止されているからだ。
ローマ広場から、水上タクシーと呼ばれる小さな船でホテルに向かった。
船は、ホテルや住宅から漏れるわずかな光に照らされた薄暗い運河を、うねうねと曲がりながら進んだ。
目の前にあるのは、狭い運河の両側に迫る壁ばかりであった。
初めてのベネチアは、うっとうしいほど狭苦しい姿で迎えてくれた。
翌朝、早起きしてホテルの周りを歩いてみると、昨夜の印象は一変した。
朝の光は狭い運河にも差し込み、茶色のレンガやグレーがかった大理石で造られた建物の壁に、美しい陰影を投げかけている。
運河には野菜や果物を積んだ小さな船が行き交い、暮らしの息吹を放っている。
小さな島がいくつもつながった町だけに、三~四メートルほどの小さなアーチ型の石橋がそこかしこに見られる。
いくつもの運河に架かる石橋を渡りながら小さな島の中を歩くのは、さながら迷路遊びのようだ。
端から端まで見渡せるような道はめったになく、たいてい折れ曲がりながらいくつも交差しているからだ。
運河沿いに建てられた建物は、よく見ると、建物の壁面それ自体が運河の一部になっているようだ。
水面から壁が立ち上がっているといったほうが正確かもしれない。
ベネチアでは、建物と運河が一体になって小さな島を形作っているのである。
撮影のため、私たちはヘリコプターで空からこの町を望んだ。
上空から見ると、町のつくりが手に取るように分かる。
遠藤泰男(ライター)
狭い運河を進むゴンドラの姿と、それを巧みに操るゴンドリーエの華麗な歌声に、だれしも一度はあこがれたことがあるだろう。
だが、世界中に知られているわりには、この水上都市は、島部分の人口がわずか八万人の小さな都市である。
都市化が著しい対岸の市域を加えても三三万人にすぎない。
イタリア半島の西側に深く入り込んだアドリア海。
ベネチア・ラカンドーナーラは、アドリア海の最も北側に位置してい'る。
そこはベネチア湾と呼ばれ、干潟が無数に点在する浅い海だ。
ベネチアはこの湾の西側にあり、大小一一八の島々が寄り集まった海上都市だ。
私たちがこの町を初めて訪れたのは、夜八時を過ぎた時刻であった。
イタリア本土から三キロメートルほどの長さの連絡橋を車で渡り、ローマ広場と呼ばれる船着き場に到着した。
ここからは車が使えない。
ベネチア・ラカンドーナーラの町は、ローマ広場に近い一部地域を除いて車の乗り入れが禁止されているからだ。
ローマ広場から、水上タクシーと呼ばれる小さな船でホテルに向かった。
船は、ホテルや住宅から漏れるわずかな光に照らされた薄暗い運河を、うねうねと曲がりながら進んだ。
目の前にあるのは、狭い運河の両側に迫る壁ばかりであった。
初めてのベネチアは、うっとうしいほど狭苦しい姿で迎えてくれた。
翌朝、早起きしてホテルの周りを歩いてみると、昨夜の印象は一変した。
朝の光は狭い運河にも差し込み、茶色のレンガやグレーがかった大理石で造られた建物の壁に、美しい陰影を投げかけている。
運河には野菜や果物を積んだ小さな船が行き交い、暮らしの息吹を放っている。
小さな島がいくつもつながった町だけに、三~四メートルほどの小さなアーチ型の石橋がそこかしこに見られる。
いくつもの運河に架かる石橋を渡りながら小さな島の中を歩くのは、さながら迷路遊びのようだ。
端から端まで見渡せるような道はめったになく、たいてい折れ曲がりながらいくつも交差しているからだ。
運河沿いに建てられた建物は、よく見ると、建物の壁面それ自体が運河の一部になっているようだ。
水面から壁が立ち上がっているといったほうが正確かもしれない。
ベネチアでは、建物と運河が一体になって小さな島を形作っているのである。
撮影のため、私たちはヘリコプターで空からこの町を望んだ。
上空から見ると、町のつくりが手に取るように分かる。
遠藤泰男(ライター)
新しい都市屠人類はどのように築いてきたか?(遠藤泰男)
現在、埋め立てや人工島の造成によって"新しい土地"を手に入れようと盛んに建設工事を繰り広げているのは、主としてアジア各国だ。
日本はもちろんのこと、香港やシンガポールは狭い国土の制約をなんとか乗り越えようと、盛んに埋め立て事業を続けている。
このところ急速な経済発展でめざましい成果を上げている中国でも、とくに発展の中心になっている上海や天津など沿岸の開放都市で、港湾整備の手法として埋め立てに取り組んでいる。
私たちは、日本の専門家たちに世界各国の事情を尋ねたのだが、現在、こうした埋め立てや人工島の造成に取り組んでいるのはアジアに集中しており、アメリカや欧米には大規模な工事はほとんどないという答えであった。
なぜ、アジア各国に"新しい土地"を造ろうという動きが集中しているのか。
世界経済の中でも、アジア沿海部の成長率がめざましく、莫大な投資を行なうだけの活発な経済活動がその背景にあるのは明らかだ。
もう一つは、地形や地盤そのものの形状や地質と関係がある。
東アジアの沿海部の海底には、三角州を形成する過程で堆積した分厚い粘土層が共通して横たわっている。
そしてまた、東アジアの沿海部には河口近くの狭い場所に人口が集中しているという特徴を持っている。
したがって、さらなる経済発展を支える基地として、埋め立て地や人工島を求めざるをえないのである。
こうした現在の動きを頭において、新しい土地を人類がどのように求めてきたかを振り返ってみるとき、非常に興味深い事実に私たちは気がついた。
それは、新しい土地を手にするために国をあげて取り組んできたのは、通商国家の発展期と重なるのではないのかということだ。
通商国家はもともと少ない人口と狭い国土の制約の中で国を発展させるために貿易の道を選んできた。
もちろん、海賊などから貿易活動を守るために海軍力を使ったり、遠い海外に植民地を確保したりはしたが、自国そのものの拡張のためには埋め立てや干拓という技術を用いざるをえなかったのである。
そうした国の代表が、地中海で貿易の盟主として発展した海の共和国ベネチアと、北海に面した海運国家オランダである。
水の都として知られるベネチアが、実は人工地盤の上に発展した都市国家であったと聞いたときに、私たちは非常に新鮮な感動を覚えた。
ベネチア湾の干潟に打ち込んだ木の杭で人工地盤を造り、華麗な石造の町を発展させてきたというのだ。
私たちは、地盤改良技術の歴史的な原点を訪ねる旅の出発地として、迷わずこのベネチア・ラカンドーナーラを選ぶことにした。
また、オランダは海運国家としての最盛期を迎えた一七世紀以来、大干拓事業を二〇世紀に至るまで続けてきた。
チューリップと風車の国として知られるオランダであるが、あの風車も実は、干拓の際に水を排出するために用いられたという。
つまり、風車は新しい土地を手にするための動力の中心であったというのである。
私たちの取材の第二の目的地は、このオランダに決まった(オランダは次節で紹介する)。
ベネチア・ラカンドーナーラとオランダ、この二つの場所で私たちは、人類がどのような技術を用いて新しい土地を手に入れたのか、その歴史の一端にふれてみたいと思う。
遠藤泰男(ライター)
日本はもちろんのこと、香港やシンガポールは狭い国土の制約をなんとか乗り越えようと、盛んに埋め立て事業を続けている。
このところ急速な経済発展でめざましい成果を上げている中国でも、とくに発展の中心になっている上海や天津など沿岸の開放都市で、港湾整備の手法として埋め立てに取り組んでいる。
私たちは、日本の専門家たちに世界各国の事情を尋ねたのだが、現在、こうした埋め立てや人工島の造成に取り組んでいるのはアジアに集中しており、アメリカや欧米には大規模な工事はほとんどないという答えであった。
なぜ、アジア各国に"新しい土地"を造ろうという動きが集中しているのか。
世界経済の中でも、アジア沿海部の成長率がめざましく、莫大な投資を行なうだけの活発な経済活動がその背景にあるのは明らかだ。
もう一つは、地形や地盤そのものの形状や地質と関係がある。
東アジアの沿海部の海底には、三角州を形成する過程で堆積した分厚い粘土層が共通して横たわっている。
そしてまた、東アジアの沿海部には河口近くの狭い場所に人口が集中しているという特徴を持っている。
したがって、さらなる経済発展を支える基地として、埋め立て地や人工島を求めざるをえないのである。
こうした現在の動きを頭において、新しい土地を人類がどのように求めてきたかを振り返ってみるとき、非常に興味深い事実に私たちは気がついた。
それは、新しい土地を手にするために国をあげて取り組んできたのは、通商国家の発展期と重なるのではないのかということだ。
通商国家はもともと少ない人口と狭い国土の制約の中で国を発展させるために貿易の道を選んできた。
もちろん、海賊などから貿易活動を守るために海軍力を使ったり、遠い海外に植民地を確保したりはしたが、自国そのものの拡張のためには埋め立てや干拓という技術を用いざるをえなかったのである。
そうした国の代表が、地中海で貿易の盟主として発展した海の共和国ベネチアと、北海に面した海運国家オランダである。
水の都として知られるベネチアが、実は人工地盤の上に発展した都市国家であったと聞いたときに、私たちは非常に新鮮な感動を覚えた。
ベネチア湾の干潟に打ち込んだ木の杭で人工地盤を造り、華麗な石造の町を発展させてきたというのだ。
私たちは、地盤改良技術の歴史的な原点を訪ねる旅の出発地として、迷わずこのベネチア・ラカンドーナーラを選ぶことにした。
また、オランダは海運国家としての最盛期を迎えた一七世紀以来、大干拓事業を二〇世紀に至るまで続けてきた。
チューリップと風車の国として知られるオランダであるが、あの風車も実は、干拓の際に水を排出するために用いられたという。
つまり、風車は新しい土地を手にするための動力の中心であったというのである。
私たちの取材の第二の目的地は、このオランダに決まった(オランダは次節で紹介する)。
ベネチア・ラカンドーナーラとオランダ、この二つの場所で私たちは、人類がどのような技術を用いて新しい土地を手に入れたのか、その歴史の一端にふれてみたいと思う。
遠藤泰男(ライター)
木の杭をこの目で確かめた(遠藤泰男)
ベネチアの東南地区、有名なベネチア造船所からほど近い一角に、目的のサン・ロレンツォ教会があった。
狭い路地を抜けて小さな橋を渡ると、教会前の広場がある。
現在のサン.ロレンツォ教会は一二世紀に建てられたもので、正面から見ると重厚な雰囲気のする濃い茶色のレンガの壁と、緩やかに傾斜した屋根が特徴的だ。
サン・マルコ寺院の華やかで少し過剰な装飾に比べると、質素というか、シンプルな外観をしており、敬慶な信者にとっては親しみを感じるデザインかもしれない。
このサン.ロレンツォ教会は、発掘作業が続けられている修復中の礼拝堂が正面にあり、その右手にはすでに修復が終わった修道院が並んでいる。
礼拝堂の正面入り口は修復中のため板塀で囲われており、修道院側の道をぐるりと回って裏手の入り口から入ることになる。
出迎えてくれたのは、発掘責任者のマウリツィア・デ・ミン女史であった。
デ・ミンさんはベネチア市建設局の副局長を務める建築考古学者である。
裏門から教会に入り、短いアプローチを歩くと、目的の礼拝堂である。
発掘作業中と聞いていたのだが、礼拝堂の中にはだれもおらず、ただがらんとした大空間であった。
礼拝堂では、修復作業に先立って祭壇の一部や壁の装飾品などが取り外されており、床の発掘現場は一部がビニールテントで覆われたままの状態であった。
案内してくれたデ・ミンさんに聞くと、私たちが訪れた一九九三年四月の時点では、まだ今年の発掘作業の予算がついておらず、作業は前年のまま放置されているのだそうだ。
実に悠然としたイタリア式の仕事ぶりともいえる。
ただ、ベネチア市内では教会など歴史的に重要な建物の修復作業がそこかしこで続いている。
たまたま、このサン・ロレンツォ教会には予算がまわってきていないと解釈したほうが間違いないだろう。
さっそく、デ・ミンさんに先導され、発掘現場に足を踏み入れた。
現場は、礼拝堂の床の一部分を掘り進める形で作業が進んでいる。
私たちを驚かせたのは、この発掘作業によって、サン.ロレンツォ教会には三つの時代の床があるということが判明したという点てある現在のサン・ロレンツォ教会は、一二世紀に改修されたものだという。
当然、私たちが最初に礼拝堂に足を踏み入れたのは一二世紀に建造された床だ。
その下に、さらに二つの時代の床があったのだ。
なるほど、掘り下げられた発掘現場をはしごで下りていくと、現在の床より一・五メートルほど下のところにん踏もう一つの床があらわになっている。
これは一〇〇〇年頃の床で、一二世紀まで何度も改修作業や床のかさ上げが続き、現在の教会の基礎をなしているものだという。
その床には、小さなタイルをモザイク状に組み合わせた模様が描かれている。
さらに下りていくと、発掘作業によって掘り返された穴に水がたまっている。
この水中の底部が、もう一つ前の時代の床の一部だと、デ・ミンさんが教えてくれた。
ただし、私たちが見ることができるのは床のほんの一部分だから、九世紀の床ほど明確な形をとっていない。
さまざまな岩石の破片などがぎっしりと詰まったようにも見える。
この床は、九世紀のもので、文献に残された最初のサン・ロレンッォ教会の床なのだという。
一〇〇〇年も前のベネチアの杭打ち工法の証拠を早くこの目で確かめたいと、はやる私たちだった。
「木の杭は見えないのでしょうか」と、私たちを案内してくれる厳格な表情の考古学者、デ・ミンさんに尋ねた。
「あちらの水の中に、何本かありますよ」と、デ・ミンさんが指さしたのは、別の一角の三メートル四方の水たまりだった。薄暗い発掘現場の水中に立つ杭は、目を凝らさなければよく見えなかった。太さが二〇センチメートル余りの丸い棒が、水中に二本あるのが分かる。長さは、まだ杭の下まで掘っていないので判明していないそうだ。 カンドー 遠藤泰男 黒ずんだ杭は表面がでこぼこになっており、ちょうど日本の古い寺院の柱のようだ。発掘調査で古い建物の構造を検討した結果、この杭は九世紀の最初の教会の基礎になったものだという。それにしても、九世紀、一一世紀、一二世紀と三つの時代の床をこの目で見ることができたとは、なんという幸運だろうか。まさに、ベネチアの発展そのものを象徴するような貴重な史跡である。
このサン・ロレンツォ教会は、実際にはさらに複雑な経緯をたどって現在に至っているという。
遠藤泰男(ライター)
狭い路地を抜けて小さな橋を渡ると、教会前の広場がある。
現在のサン.ロレンツォ教会は一二世紀に建てられたもので、正面から見ると重厚な雰囲気のする濃い茶色のレンガの壁と、緩やかに傾斜した屋根が特徴的だ。
サン・マルコ寺院の華やかで少し過剰な装飾に比べると、質素というか、シンプルな外観をしており、敬慶な信者にとっては親しみを感じるデザインかもしれない。
このサン.ロレンツォ教会は、発掘作業が続けられている修復中の礼拝堂が正面にあり、その右手にはすでに修復が終わった修道院が並んでいる。
礼拝堂の正面入り口は修復中のため板塀で囲われており、修道院側の道をぐるりと回って裏手の入り口から入ることになる。
出迎えてくれたのは、発掘責任者のマウリツィア・デ・ミン女史であった。
デ・ミンさんはベネチア市建設局の副局長を務める建築考古学者である。
裏門から教会に入り、短いアプローチを歩くと、目的の礼拝堂である。
発掘作業中と聞いていたのだが、礼拝堂の中にはだれもおらず、ただがらんとした大空間であった。
礼拝堂では、修復作業に先立って祭壇の一部や壁の装飾品などが取り外されており、床の発掘現場は一部がビニールテントで覆われたままの状態であった。
案内してくれたデ・ミンさんに聞くと、私たちが訪れた一九九三年四月の時点では、まだ今年の発掘作業の予算がついておらず、作業は前年のまま放置されているのだそうだ。
実に悠然としたイタリア式の仕事ぶりともいえる。
ただ、ベネチア市内では教会など歴史的に重要な建物の修復作業がそこかしこで続いている。
たまたま、このサン・ロレンツォ教会には予算がまわってきていないと解釈したほうが間違いないだろう。
さっそく、デ・ミンさんに先導され、発掘現場に足を踏み入れた。
現場は、礼拝堂の床の一部分を掘り進める形で作業が進んでいる。
私たちを驚かせたのは、この発掘作業によって、サン.ロレンツォ教会には三つの時代の床があるということが判明したという点てある現在のサン・ロレンツォ教会は、一二世紀に改修されたものだという。
当然、私たちが最初に礼拝堂に足を踏み入れたのは一二世紀に建造された床だ。
その下に、さらに二つの時代の床があったのだ。
なるほど、掘り下げられた発掘現場をはしごで下りていくと、現在の床より一・五メートルほど下のところにん踏もう一つの床があらわになっている。
これは一〇〇〇年頃の床で、一二世紀まで何度も改修作業や床のかさ上げが続き、現在の教会の基礎をなしているものだという。
その床には、小さなタイルをモザイク状に組み合わせた模様が描かれている。
さらに下りていくと、発掘作業によって掘り返された穴に水がたまっている。
この水中の底部が、もう一つ前の時代の床の一部だと、デ・ミンさんが教えてくれた。
ただし、私たちが見ることができるのは床のほんの一部分だから、九世紀の床ほど明確な形をとっていない。
さまざまな岩石の破片などがぎっしりと詰まったようにも見える。
この床は、九世紀のもので、文献に残された最初のサン・ロレンッォ教会の床なのだという。
一〇〇〇年も前のベネチアの杭打ち工法の証拠を早くこの目で確かめたいと、はやる私たちだった。
「木の杭は見えないのでしょうか」と、私たちを案内してくれる厳格な表情の考古学者、デ・ミンさんに尋ねた。
「あちらの水の中に、何本かありますよ」と、デ・ミンさんが指さしたのは、別の一角の三メートル四方の水たまりだった。薄暗い発掘現場の水中に立つ杭は、目を凝らさなければよく見えなかった。太さが二〇センチメートル余りの丸い棒が、水中に二本あるのが分かる。長さは、まだ杭の下まで掘っていないので判明していないそうだ。 カンドー 遠藤泰男 黒ずんだ杭は表面がでこぼこになっており、ちょうど日本の古い寺院の柱のようだ。発掘調査で古い建物の構造を検討した結果、この杭は九世紀の最初の教会の基礎になったものだという。それにしても、九世紀、一一世紀、一二世紀と三つの時代の床をこの目で見ることができたとは、なんという幸運だろうか。まさに、ベネチアの発展そのものを象徴するような貴重な史跡である。
このサン・ロレンツォ教会は、実際にはさらに複雑な経緯をたどって現在に至っているという。
遠藤泰男(ライター)
サンマルコ寺院の高さ(遠藤泰男)
一〇〇メートルの鐘楼い纈は一〇世紀に創建されました。
この鐘楼の下には、が長さ七〇センチメートルから最大一・五メートルくらいの小さな杭が大量に打ち込まれていて、こわれている。
今年九月にオープンした羽田空港のターミナルビルの下にも、この方法が用いられている。
べネチアのやり方も、発想においては何ら変わらない。
ベネチアの場合、軟弱な粘土層の下には砂の層があり、ニメートルほど木杭を打ち込めば砂の層が建物の重量を支えてくれるのである。
ここで使われた木は、カシやモミなどの堅い木だったという。
こうして土台ができ上がると、これが巨大な鐘楼を支えているのです。
この基礎工事が行なわれた当時、ベネチアの人々は水位がさらに上昇し、その土台が危険にさらされるなどとは考えもしなかったでしょう。
ところがそれが、現実に起こったのです。
とくに一二世紀には、中世最後の海水氾濫、つまり海水の陸地への浸入が起こりました。そのことで水位上昇に気づいた彼らは、一貫して杭打ち工法を用いるようになったのです。杭によって地盤を安定させる方法は、現在の日本でも埋め立て地ではごく一般的なやり方だ。 カンドー 遠藤泰男 超軟弱地盤として知られる羽田空港の沖合展開事業でも、サンドドレーンなどで軟弱地盤を安定させたうえで、建物の基礎部分に杭工法が用いられ、大量のコンクリート杭の上に石やレンガの層を重ねて、ようやく建物の基礎ができたことになる。ベネチアの運河を船で行き来すると、水面に接して何層にも積み上げられた基礎部分を見ることができる。その下には、数えきれないほどの木の杭が打ち込まれているのである。
つまり、ベネチアは人工地盤の上に町全体が載っているようなものだといえるかもしれない。
遠藤泰男(ライター)
この鐘楼の下には、が長さ七〇センチメートルから最大一・五メートルくらいの小さな杭が大量に打ち込まれていて、こわれている。
今年九月にオープンした羽田空港のターミナルビルの下にも、この方法が用いられている。
べネチアのやり方も、発想においては何ら変わらない。
ベネチアの場合、軟弱な粘土層の下には砂の層があり、ニメートルほど木杭を打ち込めば砂の層が建物の重量を支えてくれるのである。
ここで使われた木は、カシやモミなどの堅い木だったという。
こうして土台ができ上がると、これが巨大な鐘楼を支えているのです。
この基礎工事が行なわれた当時、ベネチアの人々は水位がさらに上昇し、その土台が危険にさらされるなどとは考えもしなかったでしょう。
ところがそれが、現実に起こったのです。
とくに一二世紀には、中世最後の海水氾濫、つまり海水の陸地への浸入が起こりました。そのことで水位上昇に気づいた彼らは、一貫して杭打ち工法を用いるようになったのです。杭によって地盤を安定させる方法は、現在の日本でも埋め立て地ではごく一般的なやり方だ。 カンドー 遠藤泰男 超軟弱地盤として知られる羽田空港の沖合展開事業でも、サンドドレーンなどで軟弱地盤を安定させたうえで、建物の基礎部分に杭工法が用いられ、大量のコンクリート杭の上に石やレンガの層を重ねて、ようやく建物の基礎ができたことになる。ベネチアの運河を船で行き来すると、水面に接して何層にも積み上げられた基礎部分を見ることができる。その下には、数えきれないほどの木の杭が打ち込まれているのである。
つまり、ベネチアは人工地盤の上に町全体が載っているようなものだといえるかもしれない。
遠藤泰男(ライター)
水門(遠藤泰男)
1984年に「ベネチア・ヌォーボ・コンソルツィオ」が法律によって結成されたのも、防波堤の調査、研究、建設が主目的であった。
困難であったのは、高潮の被害を最小限に食い止めるために海面変動を制御することと、ラグーナの環境を保全するため潮の行き来を遮らないという相反する2つの目的を実現することであったという。 カンドー 遠藤泰男 研究所を中心に、欧州各国の水理学、流体力学、生態学などあらゆる分野の研究者たちが、解決策を求めて基礎研究と模型実験に取り組んだという。採用されたのは、高潮や津波のときだけ作動して防波堤として働き、ふだんは水面下に隠れて湾内の自然サイクルに影響を与えない「浮遊フラップ・ゲート」と呼ばれる可動式の特殊な水門であった。
だが、大型模型実験まではいき着いたものの、実際の建設工事はいまだ始まっていない。
完成は2000年の予定だという。
遠藤泰男(フリーライター)
困難であったのは、高潮の被害を最小限に食い止めるために海面変動を制御することと、ラグーナの環境を保全するため潮の行き来を遮らないという相反する2つの目的を実現することであったという。 カンドー 遠藤泰男 研究所を中心に、欧州各国の水理学、流体力学、生態学などあらゆる分野の研究者たちが、解決策を求めて基礎研究と模型実験に取り組んだという。採用されたのは、高潮や津波のときだけ作動して防波堤として働き、ふだんは水面下に隠れて湾内の自然サイクルに影響を与えない「浮遊フラップ・ゲート」と呼ばれる可動式の特殊な水門であった。
だが、大型模型実験まではいき着いたものの、実際の建設工事はいまだ始まっていない。
完成は2000年の予定だという。
遠藤泰男(フリーライター)
急速な地盤沈下(遠藤泰男)
ベネチアの対岸で、戦後、急速な発展を遂げたマルゲーラ工業地帯での工業用水のくみ上げによる影響は、急速な地盤沈下を引き起こした。
関係者もこの事態に手をこまぬいてきたわけではない。
イタリア政府は、15年前に地下水利用を制限し、ようやく地盤沈下は止まっているという。
しかし、今世紀に入って進行した12センチメートルの地盤沈下は取り返しがつかない。
さらに、もともと老朽化が進んでいるベネチアの歴史建造物は、高潮によって著しい被害を受けている。
そのダメージのプロセスは次のように説明されている。
すでに地盤沈下と海面上昇によって、建築物の石材は海水といっそう接触するようになっている。これまで建物の壁は、水を通しにくいイストリア石がなんとか守ってきた。 カンドー 遠藤泰男 ところが高潮が頻発するようになって、イストリア石の土台の上にあるレンガの壁がしばしば水に濡れてしまうようになったのだ。レンガは石と違って非常に多孔質で、塩分や酸を毛細管現象で上昇させてしまうという。
その結果、漆喰の崩落や石材の剥がれが始まっているのだ。
先人たちがあれほど苦労して建造した貴重な遺産は、高潮にのみ込まれてしまうのだろうか。
遠藤泰男(ライター)
関係者もこの事態に手をこまぬいてきたわけではない。
イタリア政府は、15年前に地下水利用を制限し、ようやく地盤沈下は止まっているという。
しかし、今世紀に入って進行した12センチメートルの地盤沈下は取り返しがつかない。
さらに、もともと老朽化が進んでいるベネチアの歴史建造物は、高潮によって著しい被害を受けている。
そのダメージのプロセスは次のように説明されている。
すでに地盤沈下と海面上昇によって、建築物の石材は海水といっそう接触するようになっている。これまで建物の壁は、水を通しにくいイストリア石がなんとか守ってきた。 カンドー 遠藤泰男 ところが高潮が頻発するようになって、イストリア石の土台の上にあるレンガの壁がしばしば水に濡れてしまうようになったのだ。レンガは石と違って非常に多孔質で、塩分や酸を毛細管現象で上昇させてしまうという。
その結果、漆喰の崩落や石材の剥がれが始まっているのだ。
先人たちがあれほど苦労して建造した貴重な遺産は、高潮にのみ込まれてしまうのだろうか。
遠藤泰男(ライター)
モザイク模様のタイノ(遠藤泰男)
さまざまな改築や修復が何世紀にもわたって続けられたため、現在の床の下は極めて入り組んだ構造をしているのだという。
デ・ミンさんに、これまでの発掘調査で明らかになったことを詳しく説明してもらった。
「私たちは発掘調査によって、この教会建築の中に3つの異なる段階があったことを突き止めました。
すなわち、9世紀の基礎建築の段階、11世紀の建物改築の段階、12世紀以降の建物修復の段階です。
上の層、つまり新しいほうから順番に説明しましょう。
現在のサン・ロレンツォ教会、つまり12世紀に建てられた教会の下には、さらに古い建築部分があるのですが、その設計がどのようなものだったかはまだごく一部しか分かっていません。
ただ私は、12世紀の教会の設計が、基本的には1000年代の建築とされる教会の設計と同一だと考えています。
サン・ロレンツォ教会は、ベネチアのほかの多くの教会も被災した1006年の大火災で破壊され、再建されています。
私たちは火災の跡に相当すると思われる個所も発見しました。
12世紀の教会の地下納骨堂の床下で行なわれたいくつかの調査によって、さらにそれ以前の建物のものと思われる構造が現れました。
それは9世紀の建築で、種々の文献に最初のサン・ロレンツォ教会として記録され、公文書館の文書にも引用されているものです。
ここでは、基礎部分に用いる建築資材が完全に替わった点が興味深いですね。
9世紀の教会の基礎は砂岩なんですが、あとの時代の教会はすべてほかの種類の石、とくに粗面岩(火山岩の一種)が用いられています。
そこからさらに下に、教会建築ではありませんが、別の層が発見されたのです。
やはり地下納骨堂で行なわれた岩石標本の採取の結果、教会の現在の床面から約4.2メートル下、つまり平均海面から約2.6メートル下に、別の層が存在することが明らかになりました。
現在のところは、まだその成り立ちや構造は明確でありませんが、陶器やアンフォラ壺の破片、さらに床の残骸などの材質が含まれています。
この層は、おそらく地盤沈下に際して地面を高くするため、ラグーナの葦を組んだ連続層の上に載せられたものでしょう。
これらの葦は、放射線炭素年代測定法により検査したところ、5世紀末から6世紀のものと判明したのです。
ここで強調しておきたいのは、9世紀の構造の下に実際に6世紀の時代の層があるのが発見されたのは、ベネチアでも今回が初めてだということです。
しかも、この9世紀の建物もまた未発見のものでした。
最も興味深いのは、9世紀の建築基礎を調査することで、杭打ち工法という建築技術の使用が確認されたことです。
また、打ち込んだ杭の上に水平に板を渡し、その板の上に壁を建設していたことも確認されました」
それにしても、いちばん下の6世紀の床は現在の床面よりも4.2メートルも低いとは驚きだ。 カンドー 遠藤泰男 ドリーゴ教授の話にあった、海面上昇と地盤沈下にたえず苦しんできたベネチアの人たちの姿が思い出される。そこで、このサン・ロレンツォ教会の場合、なぜ、たえず建物の基礎を上げながら建築が行なわれてきたのか、デ・ミンさんに聞いてみた。
「建築構造を前のものに重ねたのには、2つの異なった理由があります。
1つは、6世紀にすでに起こったことで、海水の浸入とそれに伴う地盤の沈下という理由です。
私たちは発掘にあたって、自然の地表レベルを持ち上げる試みがたえず行なわれていたという明確な証拠を見つけました。
もう1つの理由は、何度も行なわれた改築と火災による消失です。
こうした改築に際して、この教会は前の教会の基礎の上に直接載せる形で建設されています。
そうした方法は、教会建築のみならず、ベネチアでは一般の建築にも用いられていたやり方です。
地盤が弱いため、前の基礎を再利用するという方法がとられたのです。
最後の建築である12世紀の教会も、その後、起こった地盤沈下のため、補強および修復工事を行なう必要が生じました。
補強工事は、最も沈下しやすい運河に面した部分に関して行なわれました。
次いで、地下納骨堂を完全に埋め、強化工事を施すとともに、床面を種々の材料を用いて高くしています」
遠藤泰男(ライター)
デ・ミンさんに、これまでの発掘調査で明らかになったことを詳しく説明してもらった。
「私たちは発掘調査によって、この教会建築の中に3つの異なる段階があったことを突き止めました。
すなわち、9世紀の基礎建築の段階、11世紀の建物改築の段階、12世紀以降の建物修復の段階です。
上の層、つまり新しいほうから順番に説明しましょう。
現在のサン・ロレンツォ教会、つまり12世紀に建てられた教会の下には、さらに古い建築部分があるのですが、その設計がどのようなものだったかはまだごく一部しか分かっていません。
ただ私は、12世紀の教会の設計が、基本的には1000年代の建築とされる教会の設計と同一だと考えています。
サン・ロレンツォ教会は、ベネチアのほかの多くの教会も被災した1006年の大火災で破壊され、再建されています。
私たちは火災の跡に相当すると思われる個所も発見しました。
12世紀の教会の地下納骨堂の床下で行なわれたいくつかの調査によって、さらにそれ以前の建物のものと思われる構造が現れました。
それは9世紀の建築で、種々の文献に最初のサン・ロレンツォ教会として記録され、公文書館の文書にも引用されているものです。
ここでは、基礎部分に用いる建築資材が完全に替わった点が興味深いですね。
9世紀の教会の基礎は砂岩なんですが、あとの時代の教会はすべてほかの種類の石、とくに粗面岩(火山岩の一種)が用いられています。
そこからさらに下に、教会建築ではありませんが、別の層が発見されたのです。
やはり地下納骨堂で行なわれた岩石標本の採取の結果、教会の現在の床面から約4.2メートル下、つまり平均海面から約2.6メートル下に、別の層が存在することが明らかになりました。
現在のところは、まだその成り立ちや構造は明確でありませんが、陶器やアンフォラ壺の破片、さらに床の残骸などの材質が含まれています。
この層は、おそらく地盤沈下に際して地面を高くするため、ラグーナの葦を組んだ連続層の上に載せられたものでしょう。
これらの葦は、放射線炭素年代測定法により検査したところ、5世紀末から6世紀のものと判明したのです。
ここで強調しておきたいのは、9世紀の構造の下に実際に6世紀の時代の層があるのが発見されたのは、ベネチアでも今回が初めてだということです。
しかも、この9世紀の建物もまた未発見のものでした。
最も興味深いのは、9世紀の建築基礎を調査することで、杭打ち工法という建築技術の使用が確認されたことです。
また、打ち込んだ杭の上に水平に板を渡し、その板の上に壁を建設していたことも確認されました」
それにしても、いちばん下の6世紀の床は現在の床面よりも4.2メートルも低いとは驚きだ。 カンドー 遠藤泰男 ドリーゴ教授の話にあった、海面上昇と地盤沈下にたえず苦しんできたベネチアの人たちの姿が思い出される。そこで、このサン・ロレンツォ教会の場合、なぜ、たえず建物の基礎を上げながら建築が行なわれてきたのか、デ・ミンさんに聞いてみた。
「建築構造を前のものに重ねたのには、2つの異なった理由があります。
1つは、6世紀にすでに起こったことで、海水の浸入とそれに伴う地盤の沈下という理由です。
私たちは発掘にあたって、自然の地表レベルを持ち上げる試みがたえず行なわれていたという明確な証拠を見つけました。
もう1つの理由は、何度も行なわれた改築と火災による消失です。
こうした改築に際して、この教会は前の教会の基礎の上に直接載せる形で建設されています。
そうした方法は、教会建築のみならず、ベネチアでは一般の建築にも用いられていたやり方です。
地盤が弱いため、前の基礎を再利用するという方法がとられたのです。
最後の建築である12世紀の教会も、その後、起こった地盤沈下のため、補強および修復工事を行なう必要が生じました。
補強工事は、最も沈下しやすい運河に面した部分に関して行なわれました。
次いで、地下納骨堂を完全に埋め、強化工事を施すとともに、床面を種々の材料を用いて高くしています」
遠藤泰男(ライター)
コルネール・デッラ・レジーナ(遠藤泰男)
地面にかかる荷重は一挙に増えていきました。
しかも、海水の氾濫により、いっそう脆弱になっていました。
したがって、石材やレンガを高く積み上げて都市を建設するためには、どうしても杭や石の積み方などの技術を駆使する必要があったのです。
壁には、古代ローマ時代から用いられていた技術に従って素焼きのレンガが使われました。
このやり方は、12~14世紀にかけて広く定着しました。
ちょうどこの頃、木材を主とし、重量の軽かったベネチアの町が、石造建築の大都市へと変貌を遂げたからです。
14世紀から18世紀にかけてベネチアは、貿易によって繁栄を謳歌した。
大運河沿いには貴族の館や商館、教会が次々に建設されていった。
その基礎になっているのはサン・ロレンツォ教会でも確認された木の杭だ。
地盤沈下に悩まされ、一面に打たれた杭による人工地盤の上に築かれた建物は、デザインにも特徴がある。もちろん時代ごとに流行した建築様式に従ってはいるものの、同じ建築様式で建てながらもイタリアのほかの都市と比べると軽やかな特徴を持っているという。 カンドー 遠藤泰男 15世紀のベネチアン・ゴシック建築の代表作、カ・ドーロ(黄金の館)。そのデザインは同時期のフィレンツェの建物と比べて、はるかに華奢だという。巨石や重いレンガを積み上げたりするのではなく、柱廊や窓を多くとった華やかなデザインの建物である。
また、17世紀のバロック建築の名作と言われるカ・ぺーサロ(ペーサロの館)や、コルネール・デッラ・レジーナ。
軽やかで華麗なこれらの建物を見ると、軟弱な地盤に建てるための工夫が、かえって美しさを形作っているようである。
遠藤泰男(ライター)
しかも、海水の氾濫により、いっそう脆弱になっていました。
したがって、石材やレンガを高く積み上げて都市を建設するためには、どうしても杭や石の積み方などの技術を駆使する必要があったのです。
壁には、古代ローマ時代から用いられていた技術に従って素焼きのレンガが使われました。
このやり方は、12~14世紀にかけて広く定着しました。
ちょうどこの頃、木材を主とし、重量の軽かったベネチアの町が、石造建築の大都市へと変貌を遂げたからです。
14世紀から18世紀にかけてベネチアは、貿易によって繁栄を謳歌した。
大運河沿いには貴族の館や商館、教会が次々に建設されていった。
その基礎になっているのはサン・ロレンツォ教会でも確認された木の杭だ。
地盤沈下に悩まされ、一面に打たれた杭による人工地盤の上に築かれた建物は、デザインにも特徴がある。もちろん時代ごとに流行した建築様式に従ってはいるものの、同じ建築様式で建てながらもイタリアのほかの都市と比べると軽やかな特徴を持っているという。 カンドー 遠藤泰男 15世紀のベネチアン・ゴシック建築の代表作、カ・ドーロ(黄金の館)。そのデザインは同時期のフィレンツェの建物と比べて、はるかに華奢だという。巨石や重いレンガを積み上げたりするのではなく、柱廊や窓を多くとった華やかなデザインの建物である。
また、17世紀のバロック建築の名作と言われるカ・ぺーサロ(ペーサロの館)や、コルネール・デッラ・レジーナ。
軽やかで華麗なこれらの建物を見ると、軟弱な地盤に建てるための工夫が、かえって美しさを形作っているようである。
遠藤泰男(ライター)
アミかけやデザイン文字の指定
印刷では、濃さを網点であらわしているが、その濃度を調整することによってさまざまな調子を表現することができる。
これをアミ(平アミ)といい、10パーセントごとの濃さであらわす。
モノクロ・ページのイラストなどは、このアミを組み合わせることによっておもしろいものができるし、タイトル文字などのバックにアミを使って、変化をもたせることもできる。
また、グラデーションといって、このアミの調子を連続的に変化させたのもよく使われる。
これは、アミの濃度、方向、カラーならば色などを指定すればよい。
また、最近では、タイトル文字にもさまざまな工夫がこらされ、たいへんはなやかだ。
チラシやパンフレットなど、視覚的な要素の強い印刷物では特に多用されるので、覚えておきたい
・カゲ文字
影をつけ、立体感をもたせたもので、カゲの幅と方向を指定する。
・袋文字
輪郭だけで表現した文字のことで、輪郭線の幅を指定する。
・白フチ
文字文字の周囲を白く抜いた文字で、文字のバックが写真だったり、アミだったりして、読みにくい時などに使う。マシスによると、フチの大きさを1ミリなどと指定してやればよい。カラーの場合も同様に、フチ幅と色を指定する。
・グラデーション文字
タイトル文字などにグラデーションをかけたもので、グラデーションの幅と方向、パーセントを指定する。
これをアミ(平アミ)といい、10パーセントごとの濃さであらわす。
モノクロ・ページのイラストなどは、このアミを組み合わせることによっておもしろいものができるし、タイトル文字などのバックにアミを使って、変化をもたせることもできる。
また、グラデーションといって、このアミの調子を連続的に変化させたのもよく使われる。
これは、アミの濃度、方向、カラーならば色などを指定すればよい。
また、最近では、タイトル文字にもさまざまな工夫がこらされ、たいへんはなやかだ。
チラシやパンフレットなど、視覚的な要素の強い印刷物では特に多用されるので、覚えておきたい
・カゲ文字
影をつけ、立体感をもたせたもので、カゲの幅と方向を指定する。
・袋文字
輪郭だけで表現した文字のことで、輪郭線の幅を指定する。
・白フチ
文字文字の周囲を白く抜いた文字で、文字のバックが写真だったり、アミだったりして、読みにくい時などに使う。マシスによると、フチの大きさを1ミリなどと指定してやればよい。カラーの場合も同様に、フチ幅と色を指定する。
・グラデーション文字
タイトル文字などにグラデーションをかけたもので、グラデーションの幅と方向、パーセントを指定する。




